国家を維持するものとは何か、また今後の不安定要因

  1. 4月30日ベトナム南部解放記念日50周年の熱狂

 2025年私が居住しているホーチミン市では南部解放記念日50周年の式典が連日行われていました。4月18日夕方からのホーチミン市中心部の道路一斉封鎖からスタートし、本番の予行演習を兼ねたそれぞれの式典が繰り広げられました。道路封鎖されたのが18日以外でも22日、25日、27日など前日の29日も夕方以降はたくさんの人が集まり中心部の道路は車が入れない状態になりました。

 式典は軍事パレードが中心ではありましたが、文化的な行事も繰り広げられたようです。私などはあまりに人が多いので、外から眺めるだけに徹しましたので、何が行われていたか詳細を見たわけではありません。ただ、ベトナム人のこの式典に対する熱狂を強く感じました。ベトナム政府は昨年の9月から新しい共産党書記長のトー・ラム氏が共産党書記長の職を受けています。社会主義国のベトナムは、共産党が国家を指導するとの前提があり共産党書記長が序列のNO.1として評価されています。トー・ラム氏の式典にかける思いも強かったのではないかと思います。

 ところで4月30日の南部解放記念日とはどういうことなのでしょうか。今から50年前の1975年4月30日、その当時サイゴンと呼ばれていた都市の中心部にある南ベトナム大統領官邸(現在は統一会堂と呼ばれています)の正門に2台の戦車が突入しました。それが「サイゴン解放」あるいは「サイゴン陥落」と呼ばれる出来事です。その当時大統領官邸にいた人はヘリコプターで脱出していたシーンも映像に残っています。その象徴的な出来事により、長く続いたベトナム戦争が終結した記念の日になっています。

 正式にベトナム社会主義共和国として統一したのは翌年の7月2日なのですが、統一の象徴として南部解放記念日がベトナムの祝日になっています。ベトナムが南北に分かれて戦争をしていたということは、勝者があれば敗者があるということです。敗者には海外に脱出した人も数多くいました。ただ、統一から約50年たって、ベトナムが現在の国家に対して、安定して愛国心を持った人が圧倒的に多いことを感じました。ただ、ベトナム人は合いここ心というより、祭り好きの側面があるという人もいますが、私からは愛国心が強いとしておきましょう。

 今回の50周年記念に集まってくるベトナム人たちは、全国から集合しており、ホテルもいっぱいだったと聞きます。また、封鎖された道路内には人があふれかえるようなすごさでした。中には酸欠状態になり倒れる人も多かったと聞きます。あちこちに救急車がおかれていました。私は30日当日の9時ごろ外に出ましたが、式典を終えた人が封鎖されていない方面に出るために大勢の人が歩いていました。反対方面に歩くことはできないような人混みでした。

 また、日陰の歩道ではシートを敷いて寝ている人もたくさんいました。多くの人が早朝の式典に参加するため夜遅くから場所取りをしていたようです。国家の行事に大挙して集まるベトナム人の勢いに完全に圧倒された数日間でした。私はほとんど式典には行こうと思いませんでしたが、ベトナム人の血が流れている人たちの強さを肌で感じた出来事でした。

2,国家はなぜ形成されるようになったのか

 ベトナム人の歴史的行事の熱狂を目にして、改めに国家とは何かを考えるきっかけを与えてもらいました。簡単に言えば、国家とは一定の領土を持ち、そこに住む人々を統治する組織(政府)を持つ政治的共同体と考えられます。国にとって必要な要素は主権、領土、人民と考えられ、為政者にとって最重要なことは、その三要素を守ることです。

 狩猟採集により生活を支えていた時期の人類は、狩猟採集に適した場所を探して移動をしていました。その時も狩猟採集に適した縄張り争いはあったと思いますが、相手に勝てないと思えば、また新しい場所を探すことで社会は成り立っていました。アフリカで誕生した人類の祖先が、南極を除く地球全体に広がっていったのは、このようなことが繰り広げられていたからです。

 国家という概念が現れてきたのは、集約的な農耕による定住が進み始めた古代メソポタミアという説があります。紀元前2900年ごろからのことのようです。定住が進むことで、その地域に都市国家ができていきました。農耕に適した土地や家畜をほかの勢力に奪われないように、侵入を防ぐ必要がありました。他の集団に対抗するための軍事力や共通するルール(法律)が必要になっていったと考えられます。都市国家の戦いを通じて、より軍事力が必要になるにしたがって、国の機能が大きくなっていったと考えられます。

 国家は一定の地域内に住むようになることで、そこに住む人間集団が生命の安全や生活の保障を求めて、また外的の侵入を防ぐために形成された政治的共同社会であることを考えると、日本人もいろいろの箇所から移動してきた人たちが、定住地に選んだことによって成り立ったと考えられています。

 マンモスハンターであった人たちがシベリア方面から日本列島に到着し、縄文人として恵まれた狩猟採集の地としてここに定住していきました。その頃は東北地方も温暖で木の実などもたくさん取れて、多くの人が生活できたようですが、徐々に寒冷化していき人々の南下が始まったと言われています。

 その一方で中国の内戦などで定住できなくなった人が、海を渡って日本にたどり着いた人たちがいました。それまでの縄文人の遺伝的特徴と異なる人たちでした。そのため縄文人に対してそれらの異なった特徴がある人たちを弥生人と呼んでいます。その人たちは主に稲作で生活をしていたこともあり定住地が必要でした。

 そのような弥生人ですが、最初は縄文人と激しく争ったようです。ただ、争いは長くは続かず融合していくことで、新しい日本人が作られていったと考えられます。私の故郷の長野県にある諏訪大社はそんな縄文と弥生が融合していった形跡を示す神社のようです。「縄文のビーナス」と呼ばれる遺跡も、諏訪大社の近くの茅野市で発見されました。縄文の神と出雲大社からやってきた神との融合の過程も古事記に記載があるようです。

 古代国家も農耕が始まり、人々が定住するようになったことで、人々が融合するルールを作り、守らせる権力を持ち、外敵の侵入を防ぐための軍事力が必要になることで国家が形成されてきたとみることができます。その精神的規範の統一を図るために神話などが生まれてきました。それぞれ国には伝説的な神話があります。ベトナムでの最初の国家バンラン国の神話があります。それぞれの民族には、生き残るための方策やルールが伝統として、息づいているのを感じます。

3,「新大陸」の先住民国家が残っていない理由

 国家の誕生に触れながら10年以上前の読んだ本のことを思い出しました。それは「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイヤモンド著)です。アメリカ大陸が発見された後で、アステカ帝国やインカ帝国のような先住民たちの国家がなぜ滅びてしまったのかを論考している著書です。メキシコのアステカ帝国はコルテス率いるスペインからの侵入者に滅ぼされてしまいました。同様にインカ帝国はピサロ率いる侵入者に滅ばされてしまいました。

 この著書で最初に否定しているのが、西洋人が遺伝子的に優秀であり、先住民より賢かったことにより、先住民の国が滅ぼされたのではないとしています。決定的に違ったのが、先住民にはヨーロッパからの侵入者がもたらした「はしか」や「天然痘」などに対する免疫がなく、病原菌の影響で亡くなる人が戦闘で亡くなる人よりも多かったと述べています。同時に銃という武器や鉄製の車輪や器具なども装備もヨーロッパにはあったけれど、先住民の帝国にはなかったことが影響していると述べています。

 この論考の中心になっているのが、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の違いです。ユーラシア大陸は横に長い大陸ですが、アメリカ大陸は縦に長い大陸です。その違いはユーラシア大陸には緯度の違いが比較的に少ないことです。緯度が変わらないということが気候も日照時間もあまり変わらないということです。その影響は農業に重要な意味を持ちます。農作物の生育や家畜の生育にも気候による違いが少ないことが、幅広くそれぞれの地域への拡散を生んでいったとします。

 特に同じような家畜を人が住む周辺で飼うようになることで、家畜を媒体する感染症はユーラシア大陸ではあちこちに拡散していきました。その結果、それぞれに住む人たちにも同様の免疫力がついていったと述べています。ユーラシア大陸では家畜は牛、馬、羊、豚、やぎなどいましたが、南米ではラマ程度しかいなかったとのことです。その種類の違いも感染症の数の違いにもなっているとしています。

 同様に鉄でできている銃や車輪など鉄製の製品もユーラシア大陸では広く拡散していきました。日本での種子島にたどり着いたポルトガルの宣教師から、銃が渡ってきたことが有名です。銃のことを「種子島」と呼ばれていたほどです。そのあとでヨーロッパ人によって発見された「新大陸」は、侵入者とともに銃が入ってきました。アメリカ大陸とオーストラリアは先住民の国家にはなっていません。大陸の形状と交流の関係性が国家形成に大きな影響を与えたことを「銃・病原菌・鉄」では述べられています。

4,戦後の世界秩序の安定体制にほころび

 ここのところの政治情勢は不安定化の傾向が表れているように感じます。まずは「トランプ関税」などにみられる米国の保護主義的な傾向です。従来の米国は、「世界の警察」とも呼ばれており、国際的な安定化を守るために君臨していたとも言えます。しかし、その立場を捨てて自国第一主義に走ろうとしています。

 米国は製造業が米国から中国や東南アジアなどに移行する中で、製造業が衰退していきました。国家の歴史で見てきたように最初に農業が生育することで国家が必要になりました。富や土地を外敵から守るためです。いずれの国もそこからスタートしていると思います。その後、産業革命があり工業化が進んだ国は、世界のリーダーになりました。最初に工業化が進んだのは英国です。英国の通貨が世界基軸通貨にもなりました。しかし、米国で工業化が始まると世界の工場は、世界大戦の影響もあり米国に移っていきました。第二次大戦以降は世界の基軸通貨は米ドルになりました。その後、世界の工場は戦後復興を遂げた日本から中国などに移っていきました。

 グローバル化で世界の工場が変化する中で、米国は金融やITなどサービス産業へのシフトが進んでいきました。金融や、IT事業者だけが金持ちになり、米国の農民や労働者たち厳しい生活を強いられています。その現象を見ている米国の一部指導者には、製造業がこれ以上衰退することは国家的な危機をもたらすと思ったことも事実だと思います。トランプ関税は工業のグローバル化を止めて、製造業を米国に戻そうとしている政策なのでしょう。

 トランプ氏の言動から、米国を再び偉大にすると言い、厳しい生活を強いられていた人達が何かを変えてくれると信じ支持をしました。ただ、トランプ氏の主眼はそこにはないようにも思います。トランプ氏が描いている関税を上げたことで得られた資金で、所得減税を検討していることもささやかれています。米国で多くの所得税を支払っている人はビリオネラの人たちです。ビリオネラの人たちだけが恩恵を受ける考え方のように思えます。それは金融やITなどひと握りの人だけが得をするように思います。低所得者層には所得再分配の政策を取らない限り苦しい状況は継続します。物価が上がって困るのは低所得者層です。効率化省の設置で、再分配に資する機関は次々に削減されています。やはり根底にあるのは新自由主義的な、強いものがより強くなり経済をけん引していく考え方なのでしょうか。

 産業構造の急激な変化で問題があることは日本も同じです。日本では「令和の米騒動」と言われるような事態になっています。コメの値段がどんどん上がっています。備蓄米を放出しても値段は下がりません。日本政府が取ってきた減反政策などにより、農家が急激に減っています。減反政策の原因というよりは、もうからない農業の後継者がいなくなっていることが問題の中心でしょう。カロリーベースの食料自給率が38%程度と危機的な状況にもあります。紛争、災害など何か起こると国民が食も得られない危機にあるとも言えます。これも安全保障上の課題です。日本でも抜本的な農業政策を転換しないと、もっと重要な危機がやってくる可能性さえあります。

5,「核の傘」の意味を疑う

 日米安保によって日本は米国に守られているので、他国の侵略を抑止できると考えている人も多いでしょう。日本は米国の核の傘に守られているとの話も聞きます。それを聞きながら、以前から私は腑に落ちないと感じていたことがありました。米国が世界のトップクラスに核を保有しており、同盟国への抑止力には多少の意味はあるかとは思いますので全面的に否定はしません。

 ただし、一定の抑止力としての意味はあっても、本当に日本が攻め込まれたときに米国が攻めてきた国に対して核兵器を使うでしょうか。核兵器は国際世論の批判も根強く、仮に日本の防衛のために米国が使ったとなると、その正当性に米国は批判にさらされることになると思われます。米国がそのような国際世論の批判に直面するリスクがとれるのでしょうか?自国の防衛が必要な時には、ためらわずに使うことはあるとは思いますが、他国の防衛のためにリスクを冒して使うことは考えづらいと思います。日米安保条約があるからと言って、日本は安全が得られる保証はありません。

 米国が戦後日本の占領政策を行ったことで、日本を軍国主義から民主的な国家にしようとの方向性で多くの民主化政策がとられてきました。しかしながら中華人民共和国の成立、朝鮮戦争の勃発で日本の占領政策が大きく変わりました。日本を共産化の防波堤にする考えです。自衛隊の前身である警察予備隊を創設する政令も1950年に発布されました。その後もインドシナ戦争でフランスを破ったベトナムですが、米国の反対でベトナム統一は図られず、北ベトナムと南ベトナムに分断されて、その後ベトナム戦争に米国が参入することにもなりました。冒頭に書いた内容は南ベトナムが破れて、北ベトナムが南部を解放してから50年を迎えた話ですが、米国の反共の防波堤を作るという目論見は成功したとは言えません。

 その当時は米国も力を持ち、日米安保によって日本が守られる方向性以外は考えられなかったかもしれません。しかしながら戦後80年になる中で、世界の構造が変わり始めています。第二次大戦以降民族解放運動も盛り上がり、世界上で新しい独立国ができました。国際的に新しい秩序ができた世界は、大国が小国の侵略を認めないような世論が形成されていました。ところが近年はロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻など、以前できていたような抑止力がなくなっているのを感じます。

 時代が変わり始めていくことを強く感じされられる展開が増えています。今までと同じようには進まない時代を迎えています。日本の防衛戦略も修正を余儀なくされている予感があります。あまり明るい時代ではなくなってきたのでしょうか。関税で経済的ダメージを受ける国も出てきそうな状況の中で、国際関係は緊張の時代を迎えたのかもしれません。

以上