西田俊哉のベトナム・フォー・パラダイス(2021年2月投稿分)

2021年2月10日

~ テト休暇に思う ~
日本社会が変化するタイミングとその要因


、いつもと違う特別な2021年テト(旧正月)

いつもの年は旧正月(テト休暇)の期間は、日本に帰国して帰省や日本国内での仕事をしていたのですが、今年は今までと違った休暇になってしまいました。ご存知の通り、新型コロナ感染の影響で、ベトナムへの帰国が簡単にはできなくなっているからです。テト休暇の前の1月28日頃から、ベトナム北部で感染のクラスターが発生しました。ハノイでも感染が拡大し、人の出入りが多い大都市では感染者が増加している状況です。

ベトナムでこのテト休暇は故郷に帰って家族みんなで新年を祝う大事な時期です。1年で最も人が移動する時期です・コロナ感染がこの時期に拡大し始めたことは、最悪のタイミングです。帰省する人たちは、交通費がアップするので、相当前にチケットを購入しています。キャンセルして帰らない選択をする人は少ないことでしょう。

 ただ、クラスターが発生した一部地域は、ロックダウンしており、帰省できない人も出始めています。原稿を書き始めた2月8日のベトナムのニュースにはこんな記事が出ていました。記事の一部を引用します。

2月8日付 Viet-Jo Newsから
間もなくテト(旧正月)を迎えるが、クアン・ティンさん夫婦は、故郷で離れて暮らす5歳の息子に今年のテトは帰れないことをまだ伝えられずにいる。

「1年のうち10ヶ月は離れて暮らしているので、息子に会いたいです。47歳にして初めて、故郷から離れたところでテトを迎えます」とティンさん。

夫婦は毎日、故郷で暮らす息子に電話をかけているが、テトに会えないことを伝える勇気はまだない。

ティンさんは息子を元気づけるため、両親に頼んで代わりにテトの買い物をしてもらい、更に大晦日にオンラインで家族皆が一緒に新年を迎えるつもりだ。

この記事にはほかにも 感染拡大地域の人が移動できなくなり故郷に帰れなくて、嘆いている人の話がたくさん出ています。子供が生まれて故郷に帰るのを楽しみにしていたが帰れないのを残念だと多くの人の声が載っています。突然再感染が始まったベトナムですが、旧正月について人々は一年中で最も大切にしている行事です。家族の絆が強いベトナムならではの反応です。

2、太陽暦(グレゴリオ暦)以外を使う世界のあれこれ

旧正月の行事の代表格は中国です。中国では「春節」と言って、長期休暇を利用して日本に旅行して爆買いする中国人が有名になりました。爆竹を鳴らすことや獅子舞なども有名です。休暇の時期は若干ずれることがありますが、旧正月が休みになるのは、中国、ベトナムのほか台湾、韓国、北朝鮮、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、モンゴルなど10か国もあるようです。

日本ではほぼ太陽暦以外は使っていませんが、中国文明に影響を受けた地域は、まだまだ使っています。欧米ではこの旧暦の正月のことを Chinese New YearあるいはLunar New Yearと表現しています。この旧暦の基準となるのは、月の満ち欠けの周期で1か月を表します。1日は朔日とも書きますが、朔(さく)とは地球から見て太陽と月が重なる日、新月のことだそうです。毎月1日が新月、十五日が満月になります。だから満月のことを「十五夜」と呼びます。旧正月の元日は、二十四節気の一つである立春に最も近い新月の日とされていたようです。去年の旧暦の1月1日は、新暦では1月25日、今年は2月12日になります。

営業日数が少ない2月ですが、日本では祝日が2つあります。2月11日の建国記念の日と23日の天皇誕生日です。天皇誕生日はまだ2回目ですが、建国記念の日も天皇制に関係があります。明治政府によって紀元節が2月11日に定められました。明治政府が天皇制に回帰することを重要な政策にするために設定されました。なぜ2月11日かというと、神武天皇が初代天皇として即位した時が、紀元前660年1月1日だったのです。当然これは旧暦です。新暦に直すと2月11日なのです。

日本は明治6年にグレゴリオ暦(太陽暦)を採用しましたが、平安時代から明治維新になるまでは、旧暦を使っていました。旧暦と言っても正式名称は太陰太陽暦と言われています。太陰(月の満ち欠け)と太陽の周りを1周する太陽暦の考えで調整するために閏月を設けているからその名前になりました。太陰太陽暦では1年が13か月になる年がおよそ三年に一度あります。

そうはいってもベトナムでのカレンダーはほぼ太陽暦になっています。日本と違うのはカレンダーの表記の順番が、月曜日から始まり日曜日で終わっています。週末と言われる意味はベトナムの方がわかりやすいです。旧暦の日付が小さく書かれている程度です。日常の生活は太陽暦で動いていますが、伝統的な行事は昔からなじみの旧暦を使っているのです。そのため、太陽暦を使っている国とのやり取りでも支障になることはほとんどありません。

もう一つ太陰暦を使っているのがイスラム暦(ヒジュラ暦)です。これはイスラム教らしく、純粋な太陰暦です。預言者ムハンマドがメッカで迫害を受け、イスラム教団を組織してマディーナへ移ったとされるのが、西暦622年7月16日で、それを聖遷(ヒジュラ)の日としました。そこからイスラム暦の1月1日が始まりました。ヒジュラとは聖なるものが移動したときのことです。その日からヒジュラの年として新たな暦を制定したのです。このイスラム暦は閏月がありません。毎月29日あるいは30日で、1年は354日になります。毎年11日ずつずれていくので、徐々に季節を反映しない暦になります。天気の傾向や気温の前年比としては使えませんね。

太陰太陽暦が朔(月が一番欠けた状態)を月の初めにするのに対して、イスラム暦では三日月の細い月が月の初めに数えます。そのためイスラムの国々の国旗に三日月のマークが多いのはそれが理由なのでしょう。月を基準にしている国は、まだ相当数あるのです。

3、中国文化圏で日本だけが旧暦を捨てた理由

ところで、年賀状で「新春」「迎春」「初春」「頌春」などの言葉を使うのは、実は旧暦の名残のようです。なぜならば旧正月は立春の前後あたりになるので、ようやくあたたかくなり始める時期として春という言葉を使うのです。日本を含めた中国文化圏では、いまだに旧暦で行事が行われていますが、日本だけは例外です。それまで使っていた旧暦を明治政府が一気に変えました。暦を変えたことだけを見ても、明治政府は革命的な改革を断行したことがわかります。革命的な改革をした理由は、支配者が代わったからです。支配者が代わった以上、今までの体制を維持する装置は壊し、新しい体制を築くための装置を利用することになります。その一つが暦の変更です。

明治維新と言われる政策には、四民平等、廃藩置県、地租改正、殖産興業などの大改革があります。積極果敢に大改革を断行しました。その中で古来の日本文化に戻すために廃仏毀釈のような荒っぽい政策をとったこともありました。この政策はイスラム原理主義に似ているような気もします。廃仏毀釈とは、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、仏教を廃することを指します。「廃仏」は仏を廃し、「毀釈」は、釈迦の教えを壊すという意味です。さすがにこれだけは定着しませんでした。人の精神に影響を与える考え方はそう簡単に変えることができないと言うことでしょう。

ただ、この大変革については、すべてが良いことばかりではありません。先月1月12日にお亡くなりになった作家の半藤一利さんが明治維新のことを書いています。半藤さん著作で有名なのは、「昭和史」、「日本のいちばん長い日」が有名です。「日本のいちばん長い日」は映画化もされていますが、第二次世界大戦終戦を決定する8月14日の御前会議から、ポツダム宣言を受諾することを国民に告げる昭和天皇の玉音放送までの24時間を著した作品です。蛇足ですが、その時の総理大臣鈴木貫太郎のひ孫にあたる渥美坂井法律事務所の鈴木由里弁護士とは、数年間テト休暇の時に日本でお会いさせていただいています。昨年はご家族が経営するレストランで食事をさせていただきました。今年は残念ながらその機会は持てませんでした。

話は戻りますが、半藤さんによると「明治維新」という言葉は、薩長が革命を起こし徳川幕府の体制を瓦解させて、歴史的に正当性があることを表すために使った言葉だと言います。明治の最初のうち当時の人々は、「御一新」と言っていたようです。歴史というのは勝者が書き換えることができるもので、半藤さんに言わせると明治維新という言い方は、薩長史観で自らを正当化させようとしたものと言います。歴史は多少そういうところがあるのでしょう。明治以降の活字資料には、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋な圧制者として描かれているものが多いとのことです。

薩長につかず賊軍となった会津藩や長岡藩は明治政府から差別を受けるようになったとのことです。賊軍藩は廃藩置県の時に県名と県庁所在地の名前が違う県が多いといいます。それまでの中心都市とは違う場所に県庁所在地を変えさせられたり、嫌がらせや差別があったと言います。「坂の上の雲」で有名な松山藩は四国ですが、賊軍藩だったということです。松山藩の旧士族の子弟は苦労した人が多く、有名な秋山好古、真之(さねゆき)兄弟も、地域が貧しいので、その当時タダだった教育機関の軍の学校に行かざるを得なかったと言っています。真之は有名で日露戦争の英雄として描かれていますが、大将にはなっておらず少将止まりだったようです。

4、明治維新を支えたのは若い世代

仮に明治維新が薩長史観で、自らを正当化しているとしても、大変革を成し遂げたのは、日本の改革に大きな意味があったと思います。何がそうさせたかというと、若い支配者に代わったことが大きいと思います。幕末は若い人たちが活躍しました。例えば高杉晋作は24歳の時に四か国連合艦隊の報復を受けたあとで全権大使に任命されたりしています。有能な人物でしたが、残念ながら肺結核により27歳の短い生涯でした。明治維新では活躍できなかったのですが、そのほかにも20~40代前半の若い人物が輩出しました。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋などが台頭したのです。例えば伊藤博文は27歳で兵庫県知事になり、32歳で工部卿兼参議(今の大臣)、44歳で総理大臣になっています。

なぜ、若い人たちが台頭したのかというと、適切な先輩がいなかったからです。その当時も50~60代の人たちはたくさんいたでしょうが、なぜ先輩がいなかったからというと、幕末の革命運動に参加していなかったからです。幕末の功績を認められた人たちが若かったからです。また、若年であっても能力があると認められればどんどん出世することができました。明治政府は、これらの若者によって江戸時代の既成の組織をどんどん壊していきました。中高年ではついてこられないくらいに徹底的に既存の考えを壊していきました。

その時代の若い人たちは海外留学して、新しい世界の実情を把握したり、新しい学問を勉強して、新しい考え方をするようになっていました。そのような人たちがこれからは太陽暦の時代だ、殖産興業の時代だと考えるのは十分に理解ができます。

ただ、明治も後半になると若い政治家たちも高齢化し、学校制度も整い、エリートコースがはっきりでき上がりました。年齢や試験で優秀な人を選別し、組織も人間も型にはまった人が評価されるようになっていきました。組織とは本来は目的を達するためにつくられますが、官僚化してくると目的よりも共同体としての組織を守ることが目的になります。社会が安定期に入ると、人も組織も硬直化するのです。組織の硬直化は太平洋戦争まで続いたと思われます。

5、明治維新以降、若い世代が中心になった時期とは

もう一つ若い世代が活躍した時期として語られるのが太平洋戦争の後です。若者が活躍できるようになった理由は、「戦争に負けた」ということでした。既存の価値観が壊れてしまったからです。太平洋戦争の頃の指導者層は、50~60代の人たちでした。その人たちの考え方が、敗戦によって否定されてしまいました。戦争当時の考えが否定されるようになると、それまでの中心にいた人は退かざるを得ませんし、占領される立場になった以上、占領する存在に従わざるを得ません。逆に自由に生きられるようになったのは、今までの価値観とは違う、新しい考え方や生き方ができる若者でした。

マッカーサーによる占領政策、財閥解体、公職追放など今まで日本を支配していた勢力が瓦解してしまいました。その中で政治家も若い人たちが出てきましたし、産業界でも、トヨタ、ホンダ、ソニー、松下など新しい企業が勢力を伸ばし始めていきました。
その当時、「三等重役」という言葉が流行ったそうですが、若い世代がどんどん会社の重役に昇格したことを物語っています。そして昭和22年から24年ごろに生まれた団塊の世代が、激しい競争を経て、それ以降の日本の高度経済成長をもたらしました。

 しかし、経済が安定し、「JAPAN AS  NO.1」と評されるようになると、逆に経済は低迷を深めることになりました。年齢が高くなり、組織が安定し始めると、変革の考えは後退し、現状の体制を守ろうとします。その考えが時代から離れて、成人病体質になる人間の体と似ています。組織に動脈硬化の症状があらわれてくるのです。

日本社会は最近高齢の政治家の発言から、「時代遅れ」との批判があちこちから出始めています。年齢が高い人たちは、今までの自分たちの成功体験からのモノの見方考え方から抜け出せなくなっています。また、過去に成功した人こそ長年築いてきた考え方を変えるのは難しいでしょう。それでも古い権力基盤を維持し続ければ、支配力は保ち続けることができます。いつもトップに居続ける人には、組織がその人に合わせるようになります。忖度とはそんな成人病体質になった社会だからこそ出てきた言葉でしょう。今の時代こそ、組織にとらわれず思ったことを言う人が必要になっている社会だと思います。

アフターコロナは、今までの世界には戻らないと言われています。日本が新しく変わるためには、支配する人たちが若い人に代わらないといけないのかもしれません。時代の変化のためには、同じことが通用しない状況が来ないと変わることができないのかもしれません。オンライン、在宅勤務など従来の社会では認められないような方法や様式です。年齢が高くなるとついていくのはとても大変です。でも、変わるべきことがあることはやることがまだあると言うことです。楽しみながらできればいいなと思っています。

明治維新が始まってから太平洋戦争の終戦までが約80年、終戦からコロナ禍の現在までがもうすぐ80年、そろそろ新しい時代に変わるきっかけとなるのかもしれません。

以上

投稿者プロフィール

西田 俊哉
西田 俊哉
アイクラフトJPNベトナム株式会社・代表取締役社長。
大手生命保険会社に23年の勤務を経て、2005年に仲間とベンチャーキャピタル・IPO支援事業の会社を創業し、2007年に初渡越。現在は会社設立、市場調査、不動産仲介、会計・税務支援などを展開。