古墳時代の国家統一過程と来るべき現代日本の転換点

1,上高地訪問で知った安曇一族の存在と古墳時代

 5月日本に一時帰国したときに信州松本市の上高地に行ったことをメールマガジンで伝えました。上高地のある場所は松本市に編入されていますが、以前は南安曇郡安曇村にありました。バスターミナルの近くで車を降りましたが、そこが河童橋の付近になり、穂高連峰を臨む絶景の場所です。そこから明神池までゆっくりと1時間ほど歩いていきました。徒歩で1時間かけて到着した明神池は、針葉樹林に囲まれた森の中にある池です。一の池、二の池と呼ばれている池がありますが、植物ではイチョウバイカモという珍しい水草、動物ではイワナ(岩魚)、マガモが生息しています。その中の一角に穂高神社奥宮がありました。その神社は山の安全と海陸の交通の安全を守護する神を祀っていると聞きました。毎年10月に龍の顔とゲキ(鳥類の名前)の首をあしらった二艘の舟で祭りが行われるようです。また、奥穂高岳山頂(標高3190メートル)にも嶺宮が祭られているようです。

 その神社を作った中心になった人々が、安曇族と言われる人々だったようです。安曇族の出身は、対馬から北九州地方にわたり現在の福岡県の志賀島周辺を支配していた豪族とのことです。古代日本の発展に影響を与えた人々で、優れた航海術と交易の能力を持っていたようです。大陸との取引も盛んに行っていたようです。海運に秀でたその部族は、ヤマト王権にも協力していたようです。安曇氏の祖神は、綿津見命(わたつみのみこと)という海神と言われ、海と縁のある部族ですが、北アルプスの一角に海の神を祀る神社があるのは歴史の奥深さを感じました。

 安曇一族を知ったことから、安曇一族について少しだけ調べてみました。調べる材料が多くはないのですが、興味深い内容が検索できました。安曇一族は対馬を拠点にしており、その後北九州に出ており、志賀島で出土された金印とも関係性があるようです。「漢委奴国王」と刻まれた金印ですが、後漢の光武帝が奴国王に贈った金印とのことです。

 ヤマト王権に協力していたものの、朝鮮半島の新羅と交易があった磐井は、ヤマト王権の朝鮮進出に反対することになり、大和王権との内乱になりました。その時期は古墳時代の中後期紀元500年前半(6世紀)のころです。磐井の乱とは筑紫国(現在の福岡県)で発生した内乱です。ヤマト王権と九州の豪族磐井との間で起きた内乱です。朝鮮半島とも接点があった安曇一族は磐井を支援しましたが、結局はヤマト王権側が勝利しました。磐井の乱の際にヤマト王権から恨みをかい、信濃国(現在の長野県)に逃れたとも言われています。その当時は日本の歴史上古墳時代ともいえる時代で、文字もないことなので日本側に資料はあまり残っていないので、空想も含めて古代日本について考えてみたいと思うことになりました。

2,ヤマト王権をまとめた継体天皇とはどんな天皇だったのか

 磐井の乱が起こったのは、越前国(現在の福井県)から出てきて天皇家を継いだと伝えられる継体天皇の時代です。内乱の結果、継体天皇率いるヤマト王権が勝利し、九州も支配下にすることになりました。しかし、この継体天皇の登場は天皇家一族の歴史からは異例の登場の仕方をしています。元の名前はヲホドノオウと言われています。古墳時代の507年から531年くらいに即位した第26代天皇なのですが、今の福井県あたりから出てきた天皇として有名ですが、近江から出てきたことを古事記では書かれているようです。福井市の足羽山公園には継体天皇像が今でも建っていますが、明治時代に建てられた像とのことで、歴史を証明する遺産というわけではありません。諸説ありますが継体天皇の父が早くなくなったので、母方の故郷の越前で育てられたとの話もあります。いずれにせよ継体天皇からは天皇家の出自はある程度はっきりすることができるようです。ただ、このような登場の仕方をする天皇でしたので、出自をめぐる議論が多くある天皇になります。私は詳しいことはわかりませんので、これについては深くは触れません。

 継体天皇に関しては、前代の武烈天皇が実在したかははっきりわかりませんが、継体天皇は実在したことは間違いないとされています。これ以降の天皇家の系譜は、実在性が疑われる人物はおらず、現在の皇室までつながっている重要な分岐になった人物のようです。ヲホドノオウが力をつけて勢力を近江まで拡大したと言われていますが、勢力拡大の理由は鉄資源の存在と加工のための渡来技術を活用できる立場にあったことが言われています。その当時近江は近畿圏最大の鉄の産地であり、とりわけ湖西の高島は古代における有力な製鉄地帯であったとされています。やはり力を持つ勢力になる人たちは、イノベーションを起こし、今までにないものを生み出すことができた人たちだったからでしょう。

 この当時の歴史を紐解くとヤマト王権が力をつけていく過程で朝鮮半島も高句麗、百済、新羅に分かれて争っており、その中には任那日本府という加耶諸国を統括するヤマト王権の役所が設立されていたとされます。そのように古代日本ですが、朝鮮半島諸国とは関係の深い国もありました。ヤマト王権以外にも九州の豪族も朝鮮半島の諸国と深い関係があり、それぞれの勢力が勢力の拡大に励んでいた時代であることが想像できます。鉄製品もこのころから朝鮮半島からも大量に入るようになった時代でもありようです。朝鮮半島の馬具なども日本で出土する者との共通性があるようで関係性の深さがあるようです。小野妹子などの遣隋使が派遣されるのが150年ほども後にはなりますが、それ以前に海を渡る渡航は数多くされていたようです。

3,大和朝廷に導くきっかけとなる筑紫の国磐井の乱

 朝鮮半島の国々とヤマト王権が深い関係にあったことを触れましたが、勢力争いの時代であり、朝鮮半島に国がヤマト王権の方だけを向いていたわけではありません。ヤマト王権は新羅によって奪われた任那を回復するために兵を率いて動き出しました。それを知った新羅は、筑紫の国造磐井にヤマト王権への妨害を要請したのがこの乱のきっかけです。磐井は挙兵して火の国(肥前国、肥後国)と豊の国(豊前国、豊後国)を制圧して、倭国と朝鮮半島を結ぶ回路を封鎖しようとしたようですが、継体天皇の命を受けた物部氏に敗れたことで、ヤマト王権が九州も支配するきっかけとなりました。

 磐井の乱の後、筑紫の国磐井の勢力は衰えました。ヤマト王権がこの地を直接支配するきっかけになりましたが、全国に屯倉(みやけ)を設置して中央集権的に管理できる基盤を作りました。屯倉とは朝廷が直接支配することができる直轄地のことを言います。直轄地を全国に拡大することで朝廷は軍事力や収入源を拡大して、日本を統一できるようになりました。筑紫国に置かれた屯倉は糟谷屯倉と呼ばれます。このあたりまでヤマト王権という言葉を使ってきましたが、そろそろ大和朝廷と表現してもいいかもしれません。磐井の乱の後に力をつけていったのが物部氏ですが、それと同時期に九州北部で活躍していた安曇一族は移動を始めることになりました。そして信州にも流れていったのでしょう。勢力を拡大した物部氏ですが、後に宗教に対する対立で蘇我氏に敗れて滅ぼされることになります。

 この古墳時代の特徴は墓の形式が地域ごとに異なったものだったのが、前方後円墳など近畿大和を中心に瀬戸内沿岸から九州にかけて定型化した古墳が増えていく時期とも重なっています。これはヤマト王権から大和朝廷が力をつけて、日本全国に拡大をしていき、地域の豪族を併合していった形跡とみることができるようです。地方の豪族たちは大和朝廷への支持を明確にするためにも、それらをまねた古墳を作るようになったとも考えられるようです。古墳時代とは日本の国家の形が統一し始めた時期とみることができるようです。

 この当時、宋書に記載されているのが、「倭の五王」です。ヤマト王権の天皇を指していると思われます。五王とは讃、珍、済、興、武と記されていますが、通説によると、済が允恭天皇、興が安康天皇、武が雄略天皇とみられるようです。ところが讃と珍に該当する天皇は特定することができないようです。その点でもまだ、日本の支配体制はヤマト王権が確立したわけではなかったのかもしれません。日本に文字がなかった時代のことですので、近隣諸国の歴史書に一部記載が見つかるのみで、日本の国家形成の歴史の全体像はつかめませんが、おおむね状況がわかるようです。

 その後渡来人が日本に渡ってくることも増え、漢字を使用するようにもなり、古墳時代から飛鳥時代への移行が行われるようになっていきます。飛鳥時代になると仏教が入ってきて、外国からの文化にも影響された飛鳥文化が花開くことになります。継体天皇からの系譜はこのように飛鳥時代に引き継がれていくのです。有名な聖徳太子(厩戸皇子)もこの飛鳥時代の人物です。聖徳太子が導入しようとした仏教に対して、支持する蘇我氏と反対する物部氏が争い、蘇我氏が勝利したこともその後の古代日本には大きな影響を与えました。しかし、645年乙巳の変では蘇我氏も滅ぼされることになりますので、一族が歴史の中で長く継承することは簡単ではないようです。

4,朝鮮半島・東アジアの現代史から日本との関係を考える

 上高地で知った安曇一族のことに触発されて古墳時代の古代史に触れてみました。ここからは第二次大戦で日本が敗戦し、東アジアの支配の構図が変わるようになった現代史を見ていこうと思います。中国も台湾も朝鮮半島も、日本の敗戦により大きな変化をもたらしました。まず、勝利した連合軍によって、朝鮮半島は暫定的に北緯38度線で南北に分割されました。米国はその後選挙によって、大統領を選び朝鮮統一しようと考えていました。ところがすでに米ソ(その当時はロシアではなくソビエト連邦)の冷戦がはじまっていました。そのため北は選挙に加わることはありませんでした。やむなく米国は南のみで選挙を行い、大韓民国が成立しました。

 一方で北はソ連が支援を進めて共産主義政党が主導権を取り、朝鮮労働党の金日成が国家主席になりました。それによりソ連が支持する北朝鮮と米国が支持する韓国と朝鮮半島は二つの国に分かれることになりました。それをきっかけに、南北の対立は激化して朝鮮戦争が勃発しました。当初は北が優勢で、南の領土の大部分まで侵攻することになりました。しかし、米国を中心とする国連軍が南を支援して、南の勢力を北に押し戻すことができました。その後、中国の義勇軍が参戦したことで膠着状態になり、北緯38度線に非武装地帯を設けて休戦することになりました。

 また、中国では一時日本の傀儡として満州国が建設されて、その後日中戦争を経て、第二次世界大戦(太平洋戦争)に入っていきました。中国では支配していた清が衰退していきましたが、新たな指導者に関しては、日本も少なからずの関与しようとの動きもありました。清に代わり中国を統一したのが、孫文率いる中華民国となりますが、その母体となる中国国民党が結成されました。その間に新しい勢力として力をつけてきたのが、毛沢東率いる中国共産党でした。両党は対立もしましたが、共通の敵は中国を侵略する日本だということで、国共合体という共同戦線を取った時期もありました。日本の敗戦濃厚な時期には、ソ連が入り満州国や北方領土を支配する事態になりました。中国に対しては、ソ連が領土を返還するなど中国を味方につける戦略をとったこともあり、その影響でますます中国共産党は力をつけました。孫文亡きあと、国民党のリーダーになった蒋介石と中国共産党の毛沢東が争った結果、毛沢東が勝利して、蒋介石と国民党は台湾に逃げることになりました。それが現在でも続く中国と台湾の問題として残っています。

5,東アジアの緊張と日本の転換点

 2024年は選挙の年と言われました。特にこの日本を含む東アジアでは、重要な選挙がありました。台湾の総統選挙が1月にありました。当選したのは頼清徳氏で、中国から見ると台湾独立派とみられる人物です。その結果、中国は台湾周辺で軍事演習を続けるなど台湾への圧力を強化しています。また、次に重要なのはトランプ大統領が、バイデンの後を受けて再選したことでしょう。また、日本では少数与党に転落した自民公明政権ですが、何とか石破首相誕生にこぎつけました。また韓国では12月戒厳令が出された混乱でユン・ソンニョル大統領が罷免されて、今年6月イ・ジェミョン大統領が当選しました。

 そのような変化が起こる中で2027年習近平国家主席の3期目が終わるということから、4期目にも継続するために米国の様子を見ながら台湾統合の可能性を検討するのではとの話が盛んに出てくるようになりました。それに対するトランプ大統領は、台湾にも半導体で米国の技術を盗んだなどと理由をつけて、高額な関税を課そうとしています。そのような状況からも、米国は台湾を守らないのではとの話も出ています。中国にも高額な関税をかけている米国ですが、その隙をついて中国はアセアンやアフリカ、ヨーロッパにも関係を構築しようとしています。

 一方の日本ですが、米国の関税に振り回されながら、アセアンとの関係は中国や韓国に押されて、関心が一層低下していることを感じます。東アジア、アセアンが激変しようとする中で日本の立ち位置をどう考えるかが、今回のブログの最後の論考です。日本の立場が再び復活するために何ができるかを考えてみます。日本は長く続いたデフレ経済が終焉して、インフレ経済に転換したように思います。インフレ経済への転換は、給与は上がるけれど物価も上がる経済です。この転換をもたらせたのはコロナ禍によるサプライチェーンの混乱とロシア・ウクライナ戦争など世界の混乱による物価の上昇です。それに加えて日本では労働力不足も加わって、賃上げしないと人が集まらなくなっています。それらの要因が合わさって物価の上昇になっています。その物価上昇は日本の立ち位置を変えるチャンスにすることも可能と思います。

 イギリスの経済学者にアーサー・ルイスという学者がいます。もう亡くなっている方なのですが、「ルイスの転換点」という言葉があります。経済の発展過程で労働力の供給を農村部からしているのですが、それが枯渇する過程で給与が上昇する転換点のことを言っています。労働力不足の日本では賃金の上昇は必至になってきますので、今までとは違った動きになっていくでしょう。それは円安で外国人労働者もきたがらなかった中で、米国に移民排斥の動きなども絡んで、今後は外国人の就労先に日本が選ばれる可能性もあります。今の日本の弱さを補完する流動性が確保できれば、日本の復活への道筋が見えてくる可能性はあります。

 米国は先住民の国家ではありません。ヨーロッパから移民が入ってきて先住民の土地を奪ってできた国です。その土地を開拓するために奴隷として連れてこられた人たちもいます。それからも新大陸を目指す移民の力によって国が成長して、やがて覇権国になりました。しかし、グローバル経済が拡大する過程で、製造業は海外のもっと安い生産地に移転しました。今になってそれを取り戻そうとするのがトランプ政策です。しかし、その流れを取り戻すことは難しいでしょう。それはすでに分業が進み、米国は金融やITの方に関心が移っているからです。収入が下がる製造業には移動はしないでしょう。ましてや低賃金でも働く移民を排除しようとするならば製造業の復活はないでしょう。

 東アジアが緊張する中で、日本に役割は増大するはずです。社会主義陣営とは異なる日本の立場がありますので、中国やロシアの出方に対抗するためにも国際的には日本の役割は大きいものがあるものと思います。今回は古代の日本と周辺国の歴史からみてきましたが、世界の中で東アジアや東南アジアが世界を引っ張るような時代において、古代と同様に日本とその周辺部が活性化できる時期なのかもしれません。現在の米国の混乱は覇権国家の末期を表しているとの見方をレイ・ダリオは「変わりゆく世界秩序」の中で伝えています。インド太平洋の周辺地域の緊張は高まっていますが、転換点を迎えているともいえる状況であり、日本が復活できるきっかけになるかもしれません。

以上