社員旅行で感じた東南アジアの歴史と現在の対立軸
1,三年ぶりの社内慰安旅行
コロナ禍で2020年、2021年と中止をしていた社員慰安旅行を三年ぶりに実施しました。8月11日から13日の日程で、ベトナム中部の観光地ダナン、ホイアン、フエをめぐってきました。ダナンでは数年前に乃木坂48のプロモーション動画の撮影がありましたが、私が親しくしている友人がコーディネートをしていました。千葉県や栃木県でホテルを運営する三日月ホテルも最近ですが、ダナン三日月というホテルを開業したところです。
また、ベトナムの世界遺産は7つあるのですが、中部のこの近郊に三つが集中しています。グエン王朝の首都はフエでしたが、そこのフエ建造物群が世界遺産に指定されています。またベトナム料理の中で宮廷料理として、高級料理のイメージがあるのがフエ料理です。ブンボーフエはフォーに似た麺料理ですが私が好きな麺料理です。
その近くにあるのがミーソン聖域として世界遺産に登録されています。べトナム戦争の時に発見された遺跡とのことですが、ヒンズー文化の影響があったチャンパー王国の遺跡です。この近くではインド風の伝統的な舞踏なども見学できます。ヒンズー(インド系)の文化が広がっていたことを推察できる地域です。
ベトナムの世界遺産の中でも知名度が高いのが古都ホイアンです。貿易港として栄えた面影が残った地域です。歴史的建造物が並ぶ運河の街です。日本も朱印船貿易の頃はこの港を使っていました。その当時の日本人の墓もありますから、以前はかなりにぎわっていたことでしょう。夜になるとランタンという提灯に明かりがともり、色鮮やかに古都をライトアップしています。また、小さいですが日本橋といわれる屋根のついている橋もあります。アジアの香りがするノスタルジックな雰囲気のある人気の観光地です・
2,新型コロナ対策の国による取り組みの違い
ところで日本人がベトナムに入国する場合、今現在は何の制約もありません。15日以内であればビザなしで入国もできます。陰性証明書もワクチン接種証明書もアプリの入力も必要ありません。そのこともあり、長らく渡航できなかった人たちが入国するようになりました。多くの方は二週間以内の出張ですので、ビザなしで入ってきています。ところが思わぬ落とし穴があります。それは日本に帰国するためには、搭乗の72時間以内のPCR検査の陰性証明書を入手する必要があります。そのため医療機関で検査するのですが、陽性になる方が頻発しています。旅行会社によると世界中でそんな日本人が発生しているようです。陽性の間は航空機に搭乗できません。そのためビザなしで認められている滞在期間の15日を過ぎてしまう人が発生しています。
滞在期間を過ぎてしまうと不法滞在ということになります。そのためどうしたらいいか困る人がたくさんいます。その時に弊社では出入国管理センターでの出国手続きをサポートしています。オーバーステイになった方は、多少の罰金が発生しますが、巨額というわけではないので陰性証明書が入手できればきちんと手続きを取って出国できます。
そのようにサポートする人がたくさん発生していますが、要するにベトナムウィズコロナの政策をとっていることが原因でしょう。もう感染確認をするケースも少なくなりました。重い症状の人は検査をするとは思いますが、軽い人は何もしなくなっていますし、報告もしていません。そのこともあり市中には陽性者がたくさんいるのではと思います。それでももはや人々は普段の生活をしています。ベトナムではコロナ感染の死亡者の発表もしばらくゼロが続いています。世界のあちこちでウィズコロナが進んでいるようです。賛否はともかく、日本から海外に出られる方は、海外で感染するリスクはかなり高いことは注意してください。オーバーステイになってしまうことを加味して計画を立てる必要があるようです。
先ほど会社のスタッフと話をしましたが、社員が16人いますが全員が1回は陽性になったということでした。陽性になってないのは私一人のようです。どうしてそうなるのかわかりませんが、濃厚接触が何回もありましたが、感染は切り抜けています。もしかしたら、感染はしても発病してないだけかもしれません。昨年の8月に基礎疾患があるので逃げるように日本に帰りましたが、今まで何とか切りぬけています。
ただ、コロナの対応は国によって大きく違います。どうしてそんなに違うかは国の歴史的な成り立ちの違いも影響しているかもしれません。ベトナムは様々なものに支配されたり、戦ったりの歴史でした。昨年とは違いコロナはもう戦う必要のない疫病と判断されたものと思います。主要な戦いは東南アジアの他の国に負けない経済力をつけることに変わってきたように思います。
3,宗教の布教と貿易の影響で異なる東南アジア諸国
ベトナム中部の旅行で、ヒンズーの影響などを話しましたが、ベトナムは北部、中部、南部の歴史はかなり違っています。簡単に言うと北部は中国の影響が強く、長く支配された歴史が続きました。中部はヒンズーの影響を持つチャンパー王国が支配した時期がありました。南部はアンコール文化、クメールに支配された時代がありました。カンボジアのアンコールワットが遺跡として有名ですが、クメールのアンコール文化が、インドシナ南部で大繁栄していた時期もありました。
東南アジアの中世を語るときに重要な外部要因があります。それは宗教の布教活動と貿易の発展です。ヨーロッパの大航海時代は、キリスト教の布教活動と一体化した植民地獲得競争になっていきますが、その前の時代は、宗教の布教と貿易によって世界秩序ができていきました。もっとも古いのが仏教ですが、シルクロードなどを通って東方に普及していきました。中国、朝鮮、日本などはその影響が濃くあります。ミャンマー、カンボジア、ベトナムも今でも仏教国と言っていいでしょう。しかし、東南アジアはヒンズー勢力とイスラム勢力の進行に影響されました。
ちょうどその頃、中国は唐が衰退しており、宋が支配する時期でした。中国の勢いに間隙がありました。中国からのジャンク船やムスリム(イスラム)商人のダウ船が貿易を競っていました。ムスリムはマレー半島やインドシナ半島にも進出している時代でした。一方ヒンズー勢力は、すでに東南アジアで力をつけていました。カンボジアのアンコール王朝は当初はヒンズーの神々を信仰していた王朝でした。アンコールワットの遺跡もヒンズーの影響を色濃く持っています。しかし、アンコールの衰退が始まるにしたがって、仏教化していったと言われています。
一方ムスリム商人の影響は、マレーシア、インドネシアの主流の宗教がイスラム教であることからも、その当時の影響力が推察できます。ムスリム商人が貿易で活躍した形跡はアラビアンナイト(千夜一夜物語)のシンドバットの冒険などの物語でも推察できます。また、旧ソ連のシルクロード沿線にあるウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタンなどの国々の主要宗教がイスラムであることも歴史的なムスリム商人の活躍を想定できます。
0.1.2.3.4.5.6.7.8.9の数字のことをアラビア数字と言いますが、生まれたのはインドだそうです。アラビアに普及した数字がムスリム商人によって世界に拡がったからアラビア数字と呼ばれることになったのでしょう。中世のムスリムの活躍は今以上だったかもしれません。ただ、ムスリムはヨーロッパの発展とともに宗教戦争(十字軍の遠征)にもなり、第一次大戦でのオスマン帝国崩壊後の領土分割を決めたサイクス・ピコ協定によって、中東の紛争が固定化されてしまっています。ヨーロッパを中心としたキリスト教の勢力とイスラムの勢力の対立はこれらの要因が深くかかわっています。
その後ヨーロッパが大航海時代を迎えると、世界各国でヨーロッパ列強の植民地獲得競争になっていきます。その際もキリスト教の普及がまずは水先案内になりました。英領インド(インド、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマーとマレーシアはイギリスの植民地に、仏領インドシナと言われたベトナム、カンボジア、ラオスはフランスの植民地に、オランダ領東インドと言われたインドネシア、そしてフィリピンがスペインの植民地になっていました。ヨーロッパ列強が支配する時代がしばらく続きました。
4,ベトナムの建国記念日は、日本の降伏文書調印日
まもなく2022年ベトナム最後の祝日を迎えます。昨年までは9月2日がその祝日でした。一般的に建国記念日と言います。1945年ホーチミンがベトナム民主共和国として独立を宣言した日です。なぜこの日にホーチミン氏が独立を宣言したかというと、フランスに変わって実質支配していた日本が降伏文書に調印したからです。ドイツの都市ポツダムで米、英、中、露が調印した対日共同宣言で当初調印を拒否していた日本ですが、ロシアの侵攻や原爆投下などがあり、8月15日の天皇陛下の玉音放送で終戦を宣言した後で、最終的にこのポツダム宣言を受け入れ、降伏文書に調印した日です。今年からベトナムは、9月2日に加えて祝日を2日間にしました。今年は9月1日を加えて、3日(土)、4日(日)を加えて4連休になります。ベトナムによっては貴重な連休です。
ところで今年はロシアのウクライナ侵攻、アメリカのペロシ下院議長の台湾訪問に端を発した中国の挑発行為など不穏な兆候が見られるようになりました。そのこともあり、今後日本はどのような立ち位置を維持するかが重要な局面に差し掛かっていると思います。そのなかで第二次世界大戦時に東南アジアで何があり、日本がどのような立場をとって東南アジア諸国が独立していったのかを見ていこうと思います。
東南アジアでは第一次世界大戦以降、民族解放運動の高まりがありました。また第一次大戦と違い、東南アジアも主戦場になっていました。そのため植民地支配をしていた宗主国は独立の確約をほのめかさないと植民地の人々の協力を得られない状況でした。この戦争において日本は大東亜戦争と呼び、欧米列強から東南アジアの人々を開放することも目的とすることを標榜していました。
東南アジアの植民地の各国は、日本の動きに乗って宗主国と対立して独立を勝ち取ることも一つの方法でした。宗主国に独立の確約を得て連合国が標榜していた「ファシズムと反ファシズム」の戦いの中で、反ファシズムの陣営に協力することで独立を勝ち取る方法もありました。徐々に各国の考えが反ファシズムの方向に変わっていきますが、その事情は次の通りです。
華僑系の民族が多かったマラヤ(現マレーシア)やシンガポールは日本軍の中国侵略に批判的な感情が強く、反ファシズム側につく流れができていきました。それ以外の国は日本軍について、独立のきっかけをつかもうと考えられたこともありますが、途中経過で方向が変わっていきます。インドネシアなどの資源国では、日本が物資が不足する中で資源や物資を日本が独占するのを垣間見るようになり、信頼が薄れ敵対感情に変化していったようです。
ベトナムではコメの生産地としての役割が多く、軍隊の食料にするため当初は日本軍に協力していたものの、北部での飢饉が発生し、少ない食料を日本軍が取り上げたこともあり、200万人近くの餓死者が発生したとの記録があり、決定的に敵対感情に変化したのが1945年のことです。ベトナムの独立宣言では、「フランス人と日本人の二重の支配により同胞200万人が餓死した」と記述されていますが、実際はそれよりは少ないとの話もあります。
ミャンマー(当時はビルマ)もアウンサウン将軍を中心に独立を図る動きをしていましたが、その過程で日本も接近して、日本が独立の支援と武力の提供を約束しました。一時ビルマを支配した日本ですが、その後の約束は反故にされビルマから不信感を持たれたり、インパール作戦の失敗などで急速に日本軍の信頼が低下しました。いずれの国も日本への期待は敵対に変わり、日本の支配は失敗に終わり、日本の敗戦を迎えました。
5,不穏な世界政治情勢 対立軸の変化
ロシア・ウクライナ戦争、ペロシ米国下院議長の台湾訪問から中国の台湾威嚇など、世界は不穏な空気に包まれています。最近の歴史を振り返ると、第二次世界大戦が起こったきっかけは、大恐慌の発生による不況から、植民地を持っている国がブロック経済を敷き、植民地を持たない国を排除したことがきっかけでした。それが「連合国軍と枢軸国軍」の戦いになっていきました。枢軸軍側はドイツ、イタリア、日本になります。植民地が少なく、周辺に支配できる市場を拡大する動きが戦争のきっかけになりました。
戦後の日本の復興も、ある面ではアメリカの提示した対立軸の意向が表れています。朝鮮戦争での韓国と北朝鮮の対立など、資本主義と共産主義の紛争があちこちで起こり始めている時期でした。その前年の1949年には中華人民共和国という共産国家ができていました。民族解放運動も共産主義の思想とマッチして拡大しました。そんな政治情勢の中で、資本主義陣営に日本を留めることが必要不可欠になっていました。日本を資本主義陣営に残すために経済の復興、安保条約締結、自衛隊の前身の警察予備隊を認めました。アメリカがフランスに変わってベトナム戦争に参戦したのは、東南アジアの「共産化のドミノ倒し」を防ぐことが大義名分でした。ただ、ベトナムの民族解放に対する理解や住民への虐殺などが世間に知れ渡ることで、アメリカは国際世論の支持を失っていきました。
ここ数年ではGサミットなどで盛んに使われる言葉があります。「民主主義と専制主義の闘い」です。 専制主義とは一般的には、国家のすべての権力が特定の個人や少数者の手に集中され、その意思のままに自由に政治が行なわれるような体制のことを指します。民主主義陣営とは米・加・英・独・仏と日本が入ります。専制主義の国といわれるのがロシアと中国です。SDG‘sでいわれる地球温暖化や人権問題が民主主義陣営の大義にもなりつつあります。その中で地球温暖化が止まらず自然災害が増加して、水や食糧の争奪戦になることが危惧されています。水や食糧危機をきっかけとして、紛争に発展する可能性がないとは言えません。地球環境の変化と国際間の政治的対立が拡大した時に悪いきっかけが起きないことを祈るばかりです。
以上