日本・ベトナムのバブル発生と崩壊(それぞれの在住経験から)

 

1,ベトナム投資ブームの発生と終焉の考察

 ホーチミン日本商工会議所のホーチミン市部会から日越外交関係50周年を記念した講演を依頼されました。2月のベトナム戦争の経緯などをメールマガジンやHPに投稿したものをご覧になった方からお声をかけていただきました。今回の講演にはベトナム戦争後の経済復興、言い換えればベトナム投資ブームがいかにして起こり沈静化し、それを繰り返していることを考察することにしました。その部分は講演にも利用しますが、それ以降の内容はブログ用に作成しました。

 ベトナムの経済成長が始まるのは、戦争が終わり国の統一がされた1976年からではありません。統一当初は、社会主義経済の構築を真剣に取り組みましたが、近隣国との戦争もあり経済成長には程遠い状態でした。これではいけないと社会主義体制を維持しつつも、市場経済を取り入れることを決めたのが1986年ですが、その政策ドイモイ政策がすぐに経済成長につながったわけではありません。この政策転換自体は意味がありましたが、第一次ベトナム投資ブームと言われるのが1994年からの話ですから大きなタイムラグがあります。ドイモイ政策が意味を持つのは、その年の2月に米国のクリントン大統領がベトナムへの経済制裁全面解除を発表したことに起因します。その翌年にはベトナムとの国交も樹立しました。そ以降、かなり安かったベトナムの製品が日本にも輸入されるようになりました。日本企業も進出を開始したのがこの時期からです。ところが、数年後タイ・バーツの急落に端を発したアジア通貨危機が発生し、第一次ブームは終息しました。

 第二次ベトナム投資ブームと考えられるのは、2007年1月にベトナムがWTO(世界貿易機関)に加盟する前後からと考えられます。ベトナムが国際ルールの下で対等の取引相手になっていくことを好感して、外国投資が急増しました。この投資ブームは大きな成長をもたらすものでしたが、このブームも終焉しました。それはリーマンショックが影響したという人もいますが、その当時からベトナムにいた私にはやや違うように思っています。第二次ブームでベトナムの経済は過熱していました。過熱すると何が起こるかというと不動産投資やビルの建設に投資が集まったことです。海外から建設資材なども大量に輸入されました。ベトナム人富裕層も生まれ、海外から高級品の輸入や金の輸入も増えました。

 輸入が急拡大したことで、ベトナムの外貨準備高が逼迫し、通貨危機の可能性が心配されるようになりました。1997年タイ発の通貨危機の教訓から、その危機を凌ぐためベトナム中央銀行は金融引締め政策をとりました。それが一気に景気を冷やすことになりました。あちこちで建設中のビルも多くの工事が中断する事態になりました。それは私がベトナムに来て初めて経験する不況といえるものでした。

 第三次ブームの起点と考えられるのが、2015年7月の法改正です。投資法、企業法、不動産事業法、住宅法が改正されました。その法改正の要旨は、外資の投資を拡大させることも目的でした。合わせて国営企業改革も俎上に上りました。この改正により、外資の規制が一層緩和され、外国人もコンドミニアムなどの住宅の購入が解禁されました。それに加え、不動産投資が活発になり、不動産神話(不動産は値上がりすると思う考え)が根強いベトナムでは、ベトナム人の不動産投資熱が加速しました。ベトナムはプレビルド(建設計画発表時)で販売するのですが、販売開始後すぐに完売するプロジェクトがたくさんありました。

 ただし、政府が考えていた社会的住宅(中低所得者層の住宅)の推進には逆行し、富裕層の投機の対象としての不動産投資一色になりました。また、デベロッパーは計画すればすぐ売れるので、とにかく計画を発表しようと不公正な資金調達や詐欺まがいの計画なども横行していたようです。その結果、有力なデベロッパーの経営者が逮捕されるなどの不祥事も発生しました。生憎のコロナ禍も重なり、不動産バブルが崩壊しつつあるのが現在の状況です。

 ベトナムの投資ブームを見ていると、第一次は近隣の通貨危機に影響されていますが、第二、第三ブームは過剰な投資熱の行き過ぎが、国家の金融財務上のリスクも露呈し、バブル崩壊の引き金になったことを感じます。

2,1990年代前半の日本のバブル崩壊とは何か?

 ベトナムへの投資ブームが三回あり、経済成長したものの過剰な反応の結果、政策変更の必要が生じブームが終息したことを見てきました。ところで日本の代表的なバブル崩壊として記憶に新しいのは、1990年代前半のバブル崩壊でしょう。そのバブル崩壊が起こった過程を見ていきましょう。

 まずはバブル崩壊の前にバブルの発生があります。なぜバブルが発生したかを見ていきましょう。その当時、米国はドル高と貿易赤字に苦しんでいました。1985年9月、米国の呼びかけで米国の貿易赤字を解消するために先進5か国(日・米・英・独・仏)の財務・大蔵大臣と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集まりました。その会議で合意された内容が「プラザ合意」と呼ばれています。

 その内容は米国の製造業を守るためのドル安誘導路線の構築です。それが日本には急激な円高となり、それまでは対外輸出など順調だったのが、急激な不況に陥りました。どのくらいの円高かというとプラザ合意の前日の東京市場のレートが1ドル=242円だったのですが、1988年末には1ドル=128円にもなりました。日本政府は円高で競争力が落ちた日本の企業を救済するために5回の公定歩合の引き下げが行われました。公共事業の拡大と低金利政策で産業を救おうとしました。

 ところが企業や個人はこの低金利政策でお金が余る状況になり、余ったお金は株式投資や不動産投資などに回され、本業よりも財テクの方が儲かるというムードに日本全体が覆われました。民営化されたNTT株のIPO(新規上場株式)に伴うブームなど空前の財テクブームを迎えました。その中で大手損保会社の高額絵画の購入とか、大手不動産事業者のロックフェラービルの買収など話題になりました。

 行き過ぎたブームは株価や地価の上昇を生み、担保価値や資産価値の増大をもたらし、金融機関による融資が膨らみ空前のバブルが生み出されていきました。そのほか不動産の地上げによる地価の暴騰など行き過ぎによる社会生活のマイナスも現れ始めました。

 その過熱を抑えるためにとられた政策が、1989年5月以降の公定歩合の段階的な引き上げです。その結果1989年末38,915円だった日経平均株価は、1990年末には23,848円にまで下落しました。一方、不動産価格の急騰を抑えるためにとられたのが、「総量規制」です。銀行の不動産融資を実質的に制限するための規制でした。その規制が実施されると地価が下がり始め、バブル経済は終焉しました。「総量規制」は1年3か月だけ取られた政策ですが、効果が絶大で「土地神話」が崩壊することになりました。

 資産価値の暴落に伴い、1990年代後半には金融危機の連鎖が起こりました。要因はバブル崩壊によるの資産の不良債権化です。銀行はあちこちで取り付け騒ぎが起こり、大手銀行(拓銀、長銀、日債銀など)さえも破綻しました。生命保険会社もソルベンシーマージン(支払い余力)比率が急激に低下し、事業継続ができない会社も続出しました。証券会社では飛ばしという違法行為も発覚したことから、救済もされず自主廃業に追い込まれたのが山一證券でした。この間は革命的ともいえる金融機関の再編が一気に進みました。その後も日本経済の低迷が続き、「失われた20年とも30年」といわれるような長期の経済停滞に襲われたきっかけがこのバブル崩壊です。

3,世界史に残る3大バブルとは?

1)オランダ チューリップバブル

 代表的なバブルとして有名なのが、オランダの黄金時代の16世紀に発生したチューリップバブル(チューリップ狂時代ともいう)でしょう。その頃のオランダは黄金時代を迎えており、お金がじゃぶじゃぶと入ってくる状態でした。独立を果たしたオランダは貿易の成功で富を増やしていました。オランダの東インド会社など収益性の高い会社が富裕層に富をもたらしました。

 そこにオスマン帝国(現在のトルコ)からもたらされたチューリップの球根が、富裕層の富の象徴として扱われるようになりました。チューリップは他の植物にない鮮烈な色彩と花弁を持ち、当時のヨーロッパの知られていた花とは違っていました。それがステータスシンボルになり、投機的な取引がされるようになりました。球根一つが、熟練した職人の年収の10倍以上の価値で売買されたなどという逸話もあります。チューリップの球根であれば何でも高値で取引されました。しかし実態を伴わない価格高騰は崩壊します。常軌を逸した値上がり(バブル)が、その後急激な崩壊をしたとされているのが世界最初のバルブと言われています。

2)イギリス 南海泡沫事件

 次に紹介するのが、バブルの語源になった事件です。1720年株価暴落のためにイギリス経済と政界に大混乱をもたらした事件です。スペイン王の継承問題でフランス・スペイン連合軍とイギリス・オランダ・オーストリアなどの連合軍と争っていた時期に、イギリスは戦費調達のため国債を大量発行し、利払いに苦しんでいました。

 そこで戦争終結後、利払い軽減のためスペイン領中南米植民地(南海地方)で独占的奴隷貿易権を与えるという名目で南海会社を設立、イギリスの国債を引き受けることで政府の財政負担を軽減しました。最初の貿易が比較的好調だったことから、有利さが喧伝され、ますます信用が高まりました。しかし実態の取引は当初の予想より厳しいものでしたが、この会社が更に20年の国債引き受けを申し出、国会に承認されたことから信用が高まり、より一層の投機がされるようになりました。ところが実態とは異なりました。それが判明する中で、市場は崩壊し内閣も倒れ、株価は大暴落した事件でした。

3)フランス ミシシッピ計画

 フランスの太陽王といわれたルイ14世の時代。ベルサイユ宮殿の建設や王族の浪費、他国との戦争、貴族への年金支払いにより、フランス財政は多額の借金を抱えていました。そこで沸き起こったのがミシシッピ計画です。当時フランスはアメリカ・ミシシッピ流域のルイジアナを植民地としていました。「ミシシッピには金鉱がある!」と噂が立ち、独占開発権を持つペーパーカンパニーが作られました。政府が金鉱を掘りあてたと宣伝して、株式販売をしたところ大人気になり、株価が急上昇しました。このバブル発生の首謀者はジョン・ローという英国人ですが、イギリスで事件を起こし、フランスに流れ着いた怪しい人物です。彼の経済政策を政府に売り込み、気に入られ莫大な権力を手にしました。彼はおそらく作り話を仕立てたのでしょう。

 膨大な政府の借金を国債で賄うための救済策として、国営会社だったミシシッピ会社の株式売却を行いました。株式と債券を交換する債権の株式化(Debt Equity Swap)として行われました。株価上昇に伴い、紙幣も大量に発行され、資金量が増えたことからさらにバブルは拡大しました。ところが一向に金鉱は見つからず信用が失墜し、この会社は単なるペーパーカンパニーであることが発覚しました。株価は大暴落し、経済は大混乱に陥り、多くの富裕層が大損害を被った事件です。首謀者のローは国外に逃亡しました。

4,バブル発生と暴落の歴史から学ぶべきこと

 再び日本に戻りますが、「失われた何十年」から脱却するために行われたのが、「異次元の金融緩和」です。また、日本銀行は諸外国が金利を上げても低金利政策を維持しています。過去のバブルを見ていくと貨幣供給量が増えて、儲かりそうなものが見つかると投資は特定のものに集中します。実態を反映しない価格の動きが起こります。その中で私なりに気になるのが、日本の大都市部の不動産価格の高騰です。経済回復というよりは都市部のみの不動産価格の上昇が起こっています。首都圏のマンションの平均価格は、1億円を超えたといわれています。低金利で、貨幣供給量が増えている中で、資金が向かうのは設備投資ではなく、儲かりそうな不動産投資です。

 ところがマンションを購入できるのは、日本で勤労する若い世代ではありません。投機目的で購入できる富裕層ですが、その中には外国人富裕層もたくさんいます。この動きは本来住宅が必要な人には購入できず、健全な不動産購入とは言えないでしょう。普通のサラリーマンにはとても購入できる価格ではなありません。ここまで暴騰するのは金融緩和や低金利の影響が大きいと思います。現在は熱狂を伴った投機バブルとは言えないですが、空前の金融緩和の長期化で、普通の感覚ができなくなっているのかもしれません。多くの人が熱狂しているときや、特殊な政策が長期化しているときは距離を置くのが賢明かもしれません。

 バブルは人間社会にしか発生しないように思われます。人間以外の生物には環境などの影響で大量発生するようなことはありますがバブルとは違います。なぜ人間社会にのみバブルが発生することを考えたときに、数年前にベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの著書『サピエンス全史』が参考になります。そこで述べられていることは、ホモサピエンスが文明を築き、世界を支配できるようになったのは、「農業革命」と「科学革命」が起きたことも大きいが、最重要な要素は「認知革命」だと言います。頭が良かったから、道具を使ったから、二足歩行をしたからではなく、「認知革命」が起こったことが大きいとしています。「認知革命」とは、「実際に存在しない虚構を信じ、語ることができる能力」を確保したことを言います。

 バブルとはホモサピエンスが得た「認知革命」で得られた能力の暴走ともいえるかもしれません。人間には寿命があります。長くてもせいぜい100年しか生きられません。100年以上前の出来事を経験知とする人はいません。歴史から学ぶしかありませんが、それさえも難しいものです。

 ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉があります。「歴史から学ぶことができるただ一つのことは、人間は歴史から何も学ばないということだ」という言葉を残しています。古代ローマの英雄、ユリウス・カエサルは次のように語ったといわれています。「人間ならばだれにでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」それが人間の本質なのかもしれません。そうであるならばバブルの発生と崩壊はこれからも何度も繰り返すことでしょう。

以上