日越外交関係樹立50周年から歴史を捉える

  1.  日越外交関係樹立50周年となる2023

 1973年9月21日、日本とベトナムは外交関係を樹立しました。ここでベトナムと言いましたが、正確にはベトナム民主共和国(当時の一般的呼称は北ベトナム)です。その当時南部はベトナム共和国(当時の一般的呼称は南ベトナム)でした。まだベトナムが分断国家だった時期での外交関係樹立でした。なぜ、このような時期での外交関係樹立だったのかを含めて、ベトナムの日本支配から、インドシナ戦争、ベトナム戦争を経て今のベトナムになっていく道筋を見ていこうと思います。世界の秩序は世界各国の力関係で変わってきます。日本の敗戦から、ベトナム戦争、東西冷戦の終結などを経て世界秩序は変わってきています。これからの変化を紐解く材料があるような気がします。

 まずは日越外交関係の樹立から見ていきます。外交関係樹立には、1973年1月にベトナム戦争当事国がパリ和平協定を締結したことが大きな要因です。締結したのは、米国、ベトナム共和国(南ベトナム)、南ベトナム臨時革命政府、ベトナム民主共和国(北ベトナム)によって締結され、戦争の終結と平和回復、米国とその連合国軍の撤退が約束されました。提携関係国からみても南は既に分裂しており、ベトナム民主共和国(北ベトナム)によって統一される流れに向かっていたと考えてよさそうです。ただ、南に関しては従来の政府と革命政府が併存していたこともあり、内戦状態は継続していました。しかし、もはや米国は撤退しており1975年4月30日のサイゴン陥落を経て、1976年にベトナム社会主義共和国として統一されました。その時に南部の都市サイゴンはホーチミン市に改称しました。

 2022年11月には日越外交関係樹立50周年日本側実行委員会が「日越外交関係樹立50周年特設サイト(japanvietnam50.org)を開設しています。このサイトには日越双方で実施される記念事業の情報を掲載されます。9月には400年前の長崎の商人荒木宗太郎とベトナム・グエン朝の王女ゴック・ホア姫との恋物語をモチーフにしたオペラ「アオニー姫」の初演が予定されているようです。新型コロナ禍で一時停滞していた数年ですが、2023年は日本とベトナムとの関係はさらに拡大することが想定される年になりそうです。

2. ベトナム民主共和国独立宣言が出された事情

 ベトナム民主共和国(北ベトナム)と外交関係樹立の話をしました。その当時はまだ、ベトナム共和国(南ベトナム)も共存していましたが、既にベトナム民主共和国がベトナム統一の方向に進み始めていました。ベトナム民主共和国についての歴史的事実から見ていきましょう。ベトナム民主共和国は、1945年9月2日独立宣言を行いました。なぜこの日に独立宣言が出されたかというと、この日に日本は東京湾に入っていた米国戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書に調印をしたからです。署名をした日本側の代表者は、昭和天皇、大日本帝国政府を代表して重光外相、大本営を代表して梅津参謀総長が署名をしました。その当時の日本の国の形を著している代表者です。連合国側は連合国軍最高司令官のマッカーサーをはじめ、米国、中華民国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表が署名しています。

 これは日本と連合国(United Nations)との間で交わされた休戦協定です。ところでこのUnited Nationsという表現は、連合国と違う意味で現在も使われています。それは国際連合(国連)です。国連には常任理事国がありますが、その5つの常任理事国とは日本の降伏文書に関わった連合国なのです。

 実質的にはその年の8月15日昭和天皇による玉音放送により、ポツダム宣言の受諾を表明していましたが、外交文書の調印はこの9月2日のミズーリの甲板上での調印式でした。この協定により日本の降伏が確認されて、ポツダム宣言の受諾が外交文書上固定されました。そのように日本が降伏したことでベトナム民主共和国が独立を宣言したのです。それまでのベトナムはグエン朝の時代ではありますが、実質的にはフランス領インドシナとして、フランスの植民地になっていました。しかし、第二次大戦がはじまると、大東亜共栄圏を標榜していた日本がフランスを追い出して、ベトナムを占領していた時期がありました。その戦争で日本が公式に降伏文書に署名したことで、ベトナム民主共和国の独立宣言が出されたのです。

3. 第二次大戦後続いたベトナムの苦難(インドシナ戦争、ベトナム戦争)

 ベトナム民主共和国が独立宣言をしましたが、その中心人物がホー・チ・ミン(本名:グエン・タト・タイン)です。独立宣言の前の8月28日にハノイに臨時政府を樹立し、主席にホーチミンが就任しました。それに伴ってグエン朝最後の皇帝バオ・ダイ帝が退位したことをベトナムでは8月革命と言います。ホーチミン市にはそれを記念した大通り8月革命(カクマンタンタン)通りがあります。

 しかし、順調にベトナムが独立し統一できたわけではありません。日本が降伏した中で、フランスは再びインドシナに復帰して植民地支配の復活を図ろうとしました。1946年から始まったインドシナ戦争です。この年にフランスは保護国として南部にコーチシナ共和国という政権を作りました。戦闘は1954年まで続きましたが、ディエンビエンフーの闘いに勝利したベトナム独立同盟(ベトミン)がフランスを破ったことで転換点を迎えました。転換点を迎えたという言葉の意味は、これ以降ベトナムの戦う相手が変わったからです。

 フランスが敗れたことで、1954年にジュネーブ休戦協定が締結されましたが、その約束が守られない事態になっていきます。ジュネーブ協定では一旦は南北ベトナムの統一選挙が約束されましたが、米国はその統一に反対をしました。その時に北緯17度線から南をベトナム共和国とし、ベトナムは南北に分断された国家となりました。

 なぜ米国が介入してベトナムを分断国家にしたのでしょうか?それはその当時の政治情勢が影響しています。1949年中国が共産党政権になり、中華人民共和国が成立しました。1950年代にはキューバ革命につながる蜂起が始まります。また、1950年から3年間朝鮮戦争、北朝鮮と韓国の闘いもありました。そのように世界では社会主義の国が独立する動きが拡大していきました。民族解放の動きと社会主義化が結合した動きが拡大していました。

 そこで米国内で登場したのが、「ドミノ理論」です。ある一国が共産主義化すれば、その周辺国がドミノ倒しのように次々に共産化する恐れがあるという考え方です。第二次大戦後「世界の警察」の地位を確立していた米国は、そのリスクを避けようとしました。米国がベトナムを分断国家にしたのは、この考え方が基礎にあります。周辺国の共産化を止めるために分断国家を作ったのです。ベトナム側では、1960年に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されると、ベトナム民主共和国は支援をし、米国との摩擦が拡大していきます。

 その中で1964年に「トンキン湾事件」が発生します。米国は自国の艦船が攻撃を受けた報復として北ベトナムを爆撃しました。この事件から軍事介入が拡大し、1965年からは「北爆」といわれるベトナム民主共和国(北ベトナム)への攻撃が拡大していきました。ところがこの事件は、その当時の国務長官マクナマラは、4年後この事件は米国のでっち上げであることを告白しました。

 1968年にはベトナム中部のクアンガイ省ソンミ村で米国軍によって住民が大量虐殺される事件も発生しました。また、ジャングルのゲリラの潜伏を防ぐために投下された枯葉剤による影響で胎児への異常が発生するなど、人道的な批判もされるようになっていました。米国が介入したベトナム戦争への批判が世界中に広がり日本でもベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)なども生まれました。米国映画「いちご白書」などでも有名な学園紛争の拡大の中で、ベトナム反戦運動も重要な主張になり、世界に拡散されるきっかけにもなりました。

 その世論の盛り上がりの中で、ベトナムではテト攻勢と呼ばれる動きがありました。テトとは旧正月のことで、ベトナムでは家族が集まって新年を祝う最も大事な行事です。その1968年1月30日夜から北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナムの都市や米軍基地などを攻撃した大攻勢のことを言います。不意をつかれた米国軍や南ベトナム政府軍には大きな被害がありました。テト攻勢がその後の戦況の転換点になったともいわれています。

 米国は国際的批判にもさらされて、とうとう1973年にはパリ和平協定を締結しました。その協定では、米国とその同盟国の軍隊が南ベトナムから完全に撤退すること、南ベトナムの国民の基本的権利と民族自決権を尊重することになりました。日本がベトナム民主共和国と国交関係を樹立したのもこの年で、この流れで時代が変わったからです。

4. 戦争後のベトナムと米国との関係

 ベトナム戦争が終結し、1976年にはベトナム社会主義共和国として国が統一しました。ところが国が統一したからすぐに経済が活性化して繁栄を得られたわけではありませんでした。ベトナムのカンボジア侵攻や中越戦争などの影響もありますが、計画経済の失敗など社会主義的経済政策がそれほどうまく機能しなかったことが要因に思います。

 ベトナム経済が発展し始めるのは、市場経済を取り入れようとするドイモイ政策の導入などの要因がありますが、最も大きいのは皮肉にも米国がベトナムの経済制裁を解除したことによります。日本の外交関係樹立は1973年ですが、米国は20年以上も後になります。1994年米国大統領クリントン(当時)がベトナムに関する経済制裁の全面解除を正式に発表し、翌年1995年7月に国交の正常化を発表しました。

 第一次ベトナムブームと言われた外国投資ブームは、これらのことが引き金になりました。直後のアジア通貨危機の発生で伸びが鈍化した時もありましたが、ベトナムと米国の貿易は年々拡大しています。2020年には両国間の貿易取引総額は600億USD(約8兆円弱)に上っています。第二次ベトナムブームは2007年ベトナムが世界貿易機関(WTO)に加盟したことです。それにより世界各国はベトナムが世界標準の商取引ができる国になったと評価されて、急激に外国投資が集まることになりました。米国以外にも西側諸国の投資が集まる国に変化しました。ベトナムにとって国際社会、特に資本主義陣営との取引が拡大したことが経済成長に寄与しました。

 現在の日本は貿易赤字国になってしまいましたが、現在ベトナムは米国との貿易黒字が年々拡大しています。50年前の日本にとって代わろうとしているかのようです。特に今後は米中摩擦の影響もあって、中国を生産拠点としていたグローバル企業が、サプライチェーンの再編を加速しています。中国に代わってサプライチェーンをベトナムに移動しているのです。特にスマートフォンや衣料品など米国に輸出する品目の貿易額が拡大しています。ベトナムにとって重要な貿易国は中国も同様ですが、将来をにらんで米国との取引の拡大を狙っているベトナム企業が多くなっています。

 また、ベトナム人たちから人気の国として筆頭に上がるのが米国です。ベトナム語では米国のことをミー(My)と言います。美しい国という意味です。日本では米国と書きますが、ベトナム式に漢字にすると美国ということになります。特にベトナム人の留学先として一番人気は米国で、2020年には3万人のベトナム人が米国の学校に在学しています。

 2022年3月にはベトナムの自動車製造企業ビンファスト社が、米国のノースカロライナ州で電気自動車の工場建設を発表しています。投資額は20億ドル(約2,500億円)で7000人以上の雇用を創出し、生産台数年間15万台を計画するとしています。更に米国でのIPO(新規株式上場)を申請し、EV用充電スタンド大手のエレクトリックファイ・アメリカとの業務提携も発表するなどベトナム企業の米国進出の動きが増えています。以前、戦争の敵国でありながら、米国はベトナムにとって最重要な国になっています。

5. 米国の世界戦略の変更で日本の役割が変わった

 ある面では日本もベトナムと似ていると言えるかもしれません。太平洋戦争の敵国は米国でした。ベトナムと違って日本は負けましたが、戦後の日本の改革は、連合国軍によって管理されました。特に米国のマッカーサーが最高司令官に着任し、米国の改革を進めていきました。主な改革は女性参政権の付与、労働組合や労働三法の制定、教育三法の制定、秘密警察の廃止、経済機構の民主化(財閥解体、農地改革)などです。

 ところが世界で共産化する国が増えていく過程で、米国の対日政策が変わっていきました。まず、1949年の予算はドッジラインとして有名ですが、赤字予算から黒字予算への転換を進める超緊縮予算にしました。このようなインフレ抑制策により物価の安定をもたらしましたが、通貨供給量の減少で産業界は深刻な資金不足に陥って失業や倒産が相次ぎました。これをドッジ不況とも言います。今では「世界のトヨタ」といわれるトヨタ自動車ですが、この時期には倒産の危機に追い込まれました。その時期と同様に2023年は世界がインフレ抑制策を取っているので、経済が減速するとみられています。

 ところが1950年に勃発した朝鮮戦争では、最前線のサプライチェーンとして日本の産業に特需を与えました。特に兵器産業、石炭、自動車部品などが特需で潤いました。トヨタもここから日本を代表する企業に駆け上がっていきました。日本の高度成長へのきっかけは朝鮮戦争でした。

 そのころから、米国が考える日本の役割は変わり始めました。ドミノ理論の防波堤としての日本です。日本はアジアの共産化を防止するために最前線と考えられるようになりました。そこで設立されたのが警察予備隊(のちの自衛隊)です。最初は積極的に認められた労働運動が弾圧されるようになり、レッドパージ(赤狩り)も行われました。その流れは日米安全保障条約締結にもつながっていきます。

 今回はベトナムの近代史に日本の戦後を絡めてみてきましたが、2020年から2023年は世界秩序が変わり始めているようにも思います。新型コロナ、ロシア・ウクライナ戦争、米中摩擦と変化の要因があります。米国がまだ世界の中心に君臨する中で、対中国との関係が波乱要因になっています。どちらかというとベトナムは中国を警戒しながらも、経済的には中国ともつながっています。日本は経済的には中国との関係はかなり深い関係です。これからの数年あるいは数十年は、米国と中国の関係がどうなるかで、その周辺国は翻弄されることになる可能性があります。

以上